「私は女優という仕事に魂を打ち込み続けるでしょう。 孤独を受け入れながら自分を貫いたカミーユのように...」
(1989年「カミーユ・クローデル」日本公開に合わせて初来日した際のmarie claire japonインタビューより)
イザベル・アジャニは、他人のために自分を晒すのではなく、自分のために演じるという生き方を選んだ女優である。
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本 名 Real name :
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イザベル・ヤスミン・アジャニ Isabelle Yasmine Adjani
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生年月日・生誕地 Date of birth, location :
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1955年6月27日フランスのパリ17区に生まれる。 She was born in Paris17th, France on June 27, 1955. その後すぐにイザベルは家族とともにパリ郊外のジェンヌベリエに移り住んだ。 At that time, Isabelle lives quietly with family in Gennevilliers.
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両 親 Parents :
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父親(シェリフ=モハメド・アジャニ)はアルジェリアから移住したトルコ系の移民労働者。母親はのバイエルン地方出身のドイツ人(ゲルマン系アレマン人)。
家族は、パリ郊外のジェンヌベリエに住んでいる。 She was born to an Algerian father of Turkish ancestry and a German mother
(allemande).
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兄 弟 Brother :
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3歳年下の弟でカメラマンのエリック・アジャニ。 Eric ADJANI, younger brother,a photographer.
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恋 愛 Romance :
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映画撮影監督である12歳年上のブルーノ・ニュイッテンと20歳の頃より同棲、未婚の母になるが ブルーノとは別れる。(89年、イザベル自らプロデュース・主演した映画『カミーユ・クローデル』の監督にブルーノを要望し大作を完成させている。)
その『カミーユ・クローデル』のプロモート中に知りあったダニエル・デイ・ルイスと恋愛関係にあったがルイスの女癖があまりにひどいため別れる。
まあ他にも「ザ・ドライバー」で共演したライアン・オニール、「イシュタール」で共演したウォーレン・ビーティー,「王妃マルゴ」で共演したヴァンサン・ペレーズなど、どれも共演者と浮名を流している。
2003年、シンセサイザー・ミュージシャンのジャン=ミッシェル・ジャールと恋愛。(ジャン=ミッシェル・ジャールは、世界的に有名な映画音楽作曲家モーリス・ジャールの長男)
2004年、ジャン=ミッシェルと別れる。日本では「イザベル・アジャニの惑い」公開に合わせて共演のスタニスラス・メラールとの恋愛が噂されたが、本人から一言もそのような関係であった事実は発表されていない。
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子 供 Children :
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1979年3月、ブルーノ・ニュイッテンとの間に男児バルナベ。1995年4月、ダニエル・デイ・ルイスとの間に男児ガブリエル・ケイン。(2児とも未婚のまま出産) She has two children,
Barnabe, with Bruno Nuytten, and Gabriel-Kane, with Daniel Day-Lewis.
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髪の色 Hair color :
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黒 Brunette
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瞳の色 Eye color :
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ペール・ブルー Pale Blue
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身 長 Height :
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170cm (5 feet 7 1/8 in)
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語 学 Languages :
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フランス語、英語、ドイツ語、イタリア語 French, English, German and Italian
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性 格 Personality :
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秘密主義、完璧主義、衝動的、内気、空想好き Secretive, Perfectionist, Impulsive, Shy and Dreamy
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趣 味 Interests :
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読書、ドレス集め Reading and Dress collecting
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好きなこと Favorite things :
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長電話 Long telephone chat
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嫌いなこと Dislikes :
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プライバシーの侵害、インタビュー、写真をとられること。 Invasion of privacy, interviews and to be taken the photograph selfishly. とくにインタビューや記者会見で勝手に写真をとられるのが嫌いなことは今でも変わらない。
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子供の頃の夢 Dreams of childhood :
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父の故郷であるアルジェリアへの旅。将来は学者か児童裁判所の判事になりたかった。
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ファッション関係 Mode :
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C.ディオールやC.ラクロワのイメージキャラクターとして活躍。 1993年には、パリコレでラクロワのコレクション最後を飾る「マリエ(ウェディング・ドレス)」のモデルとして登場し話題となった。
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歌 手 Singer :
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1983年にセルジュ・ゲインズブールと共作で初のアルバム "Pull marine"を発表し、同名シングルがヒットした。(CD/Phonogram)
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イザベルの才能を見抜いたフランソワ・トリュフォー
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彼女は12歳のときから演劇を志し、しかも古典劇のヒロインになることを夢見ていました。
1970年、彼女が14歳のとき、映画プロデューサーのベルナール・T・ミッシェルにスカウトされ『小さな木炭商』で映画デビュー。その後テレビからも依頼があり、ルネッサンスの年代記シリーズ『フラマン派の密約(Le
secret des Flamands)』やモリエールの『女房学校』などに出演。
そんな彼女をロベール・オッセンが目をつけ、『ベルナダの家』という芝居に出演させ、イザベルの才能はここで大きく開花し成功をもたらしたのです。そして71年に出演した『夏の日のフォンテーヌ』で青春の輝きに満ちた少女を好演、多方面から注目されました。
1973年、演出家のジャン・ポール・ルーションに招かれて名門コメディーフランセーズに入団、18歳で正式座員になりました。(この歳で入団したのは今でもジャンヌ・モローとイザベルだけです。さらにコンサルヴァトワールも出ていないのにオーディションさえ無しでの入団は未だにイザベルのみ。)
コメディーフランセーズでは『オンディーヌ』『ポール・ロワイヤル』などのヒロインを演じ、最年少でコメディーフランセーズに入団したイザベルの舞台『女の学校』がTV放映され、その演技力に大きな反響を呼びました。そしてトリュフォーいわく「ブラウン管に向かって私を涙させた唯一の女優」と言わしめたのです。
トリュフォーから映画界へ誘われた彼女はここで映画をとるか、座に残るかの二者択一にせまられ、映画をとってコメディーフランセーズから除籍されたのです。
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世間のしがらみに対する自己の解放が彼女の魅力を形成している
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イザベル・アジャニはカンヌでの主演女優賞やフランス映画協会のセザール賞主演女優賞を受賞し、今やフランスだけでなくヨーロッパを代表する女優となりました。そんな彼女ですがフランス人の血は一滴も流れていません。アルジェリア人の父とドイツ人の母に育てられた混血児の彼女は、有名になってからもプライベートに関する取材には一切応じませんでした(母親が人種差別をするフランスという国が嫌いだった影響もあるのでしょう)。
18歳の若さで名門劇団コメディーフランセーズの座員となり、その舞台は次々と好評を得ていた19歳の時には、マスコミに最も非協力的だった人に贈られる「レモン賞(シトロン賞)」を受賞するくらいでした。そしてとうとうマスコミ界から「イザベル・アジャニはエイズだ!」という噂(「イザベルがエイズでフランス中の病院をたらい回しにされている」とラジオやテレビで報道されたが、その時イザベルはパリ市内を車でドライブ中だった。)を流され、そのためにエイズ否定記者会見までわざわざ開かなければならなくなったのです。
また、彼女はワガママな女優としても有名です。1982年の『カルメンという女』の撮影10日後の現場放棄、1983年の舞台『令嬢ジュリー』の突然の契約破棄、同じく1983年に2度目のセザール賞を受賞した『殺意の夏』では、一度断った役を新進女優ヴァレリー・カプリスキーが代わって撮影開始されてから取り戻したり、1984年のアンジェイ・ブラウスキー監督の"L'Amour
Braaue'"の契約途中解消など周囲を混乱に陥れることしばしばでした。
しかし、そうやって大ヒンシュクを買いまくっても、その類いまれなる演技力と美貌によって世間からは抹殺されることはありませんでした。(「王妃マルゴ」の撮影中には、連日撮影スタッフを招いて食事会を催すなど、実際は気配りな女性のようです)
イザベルは、19世紀の彫刻家ロダンの弟子であり愛人でもあった女流彫刻家カミーユ・クローデルを主人公にした映画『カミーユ・クローデル』(イザベル自身がプロデュース・主演)で、苦しみ傷つきながらも自らの生き方を貫こうとして、やがては精神のバランスを失ってしまった女性を演じています
。
そのインタビューで彼女は
「波乱に満ちた激しい一生というのは、どんなものであれ人間の権利の歴史や女性問題、社会問題を要約している」と答えていることからも、世間のしがらみに対する自分自身の解放が宿命なのだということを確信しているのかもしれません。
それは、フランス国内の人種差別に対する反対運動に参加したり(人種差別主義を掲げる国民戦線に反対する団体とともに活動し、移民を支援し続けている)、父親の故郷であるアルジェリアの現状に反抗して現地に赴いて活動したりしていることからも、社会と自らの矛盾をさらけだして解き放とうとする彼女ならではの生き方なのではないでしょうか。
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