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STUDIO 176号掲載
イザベル・アジャニ ロングインタビュー


Isabelle Adjani long Interview [ Japanese translation by Yoichi Takagi ]

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 そう、新作"La repentie"の宣伝文句のように、我々は彼女がいなくて寂しかったのだ。4月17日公開となるレティシア・マッソンの新作だけでなく、彼女はブノワ・ジャコー監督の"Adolphe"に、ラプノーやシェローとも仕事をする予定なのだ。

 彼女がこれほど仕事をしたことがあっただろうか、またこれほど話をしてくれたことがあっただろうか?彼女の仕事について、演技について、そして人生について。
 イザベル・アジャニはここ数年間、映画出演していなかったので、失われた時間を取り戻そうとしている。サミ・フレイと共演し、この映画のヒロインを演じているレティシア・マッソン監督の新作"La repentie"が、4月17日に公開となる頃、ベンジャマン・コンスタン原作、ブノワ・ジャコー監督作品である"Adolphe"の撮影も終えているだろう、この映画の公開は10月25日に予定されている。

 彼女はジャン-ポール・ラプノー監督の新作へも出演が告知されているし、あの『椿姫』から2年、今度はパトリス・シェローの演出で「フェードル」を演じるために舞台へ上がる。

 彼女がこれほど多くの仕事をしたことはなかっただろう。これほど彼女の話を聞きたいと思ったこともなかった。彼女のこの再び燃え出した情熱と倍増したエネルギーがどこから来たのか理解するために。  

 イザベル・アジャニがこのインタヴューを受けてくれた時、レティシア・マッソンは"La repentie"の最後の仕上げにかかっていた。だから我々はまだこの作品を見ていない。しかし何よりも一番興味を引かれたのは、彼女の人生で何が変わったのか、仕事との取り組み方、彼女の天職、また彼女の演技について話してもらえると言うことだったのだ、女優と言う仕事は彼女にとって信仰のそれに近いものがあり、真理を追求するものだからである。

 イザベル・アジャニと会うことはいつもの通り、長く芳醇で、情熱を感じさせ、おかしくて重厚、軽快で深遠、エピソードを語る上でもアイデアが重要なのだ。

 飾り気のない彼女に会えたのも良かった、美しく、情熱的、自然のまま、枠に収めることはできない。人生への驚くような空腹感を持ち、今日彼女にとってそれは、仕事へのすさまじい欲望となっている、まるで呼吸をするかのごとく自然にこの仕事に向かっているのだ。その気持ちが新しく、ワクワクさせるのである。


STUDIO
:
"La repentie" (後悔する者)と言う題名に惹かれて、この映画への出演を決めたのですか?

Isabelle Adjani
:
この映画のプロデューサーたちがこの映画を作りたいと思っていて、その気持ちが私に飛び火したわけ。彼らにはこれまで誰にもしてもらわなかったことをしてもらったの。あそこまで出来る人はいないと思うわ…ARPのミシェルとローラン・ペタンが私に映画復帰させようとしたくて、(題材を)探していたのね。探して、探して、探し抜いて見つけたのよ。

"La repentie"はある小説の題名(訳注:ディディエ・デナンクスの同名小説)で、この中に映画の始まり、出発点があったの。一人の女性が出所して、駅へ行き、出発する最初の列車に乗るの…海へ向かって。それが出発点の始まり…

STUDIO
:
なぜ始まりの始まりを告げると言う事が、これほどあなたには意味深いものだったのでしょうか?この映画のヒロインは逃亡する女性ですね、あなたにはそれが魅力的だったのでしょうか?

I.A.
:
レティシア・(マッソン)が撮影前に小さな黒いノートを私にくれたの、彼女の書き込みで一杯なんだけど、それが凄い磁石みたいに私を引きつけたのね:逃亡する孤独な人間のお話なの、女性で逃亡中にもう一人の孤独な人間に出会う、男性のね、刑務所から出てきて、彼女は魂のない抜け殻みたいなの。

彼女の人生は即興でしかなかったのね。一本の筋もなく、境界性もなく、知り合いもいない。社会から拒絶されていることも彼女はほとんど無関心。それを示す必要も彼女にはないのね。誰かに告白することもない、孤独で野性的で独立しているの。

STUDIO
:
監督はそんな風な説明を後であなたにしたのですか?

I.A.
:
こんな風に人物を”作り上げてみたら”って提案してくれたのよ、だってレティシアは女優と真正面に向き合って、彼女を見て、見た通りに、彼女自身が想像したように撮影するから、だから何もしなくていいからって言われたわ、私自身でいればいいって、もちろんそれは、彼女の視点の矛盾が私自身の矛盾と重って、フィクションと言うフィルターを通して、撮影するために想像した通りの場面を通じってことですけど。

まるで”役作り”が演出する女優よりも自分自身のためって感じなの。レティシアはインスピレーションが沸いてくる女優としか仕事が出来ないんです。自分の願望しか参考に出来ないからですね。自分の観察眼の中でインスピレーションを探しているんです。だからってどうって事はないんですが、同時にそれが全てなんです:ある仕草や視線、存在感や全く感じられない、あるいは過剰なまでの不在感とか…実際彼女が頼むことは、要求でも必要だからということじゃなしに、任せてってことなんですね。

STUDIO
:
しかし、仕事に関して言えば、あなたが人任せなんてことはこれまでなかったことではありませんか…

I.A.
:
恋愛のようなものね:愛されているという理由で、任せるって言っても誰でもいいってことではないから(レティシアはもちろん特別な人です!)好きなようにしてもいいということじゃありませんし、望まれているというだけでは承諾には不十分です。

でも仮にその気持ちが嬉しくて、それに魅せられ守られ、その人物になりたいと思えたその瞬間に、イエスの返事を私はします…もちろん愛されることには常にリスクがあります、それが自分に幸福を望んでいる人だとしてもね…

STUDIO
:
撮影中に監督と俳優と言う関係に苦しんだことがありますか?

I.A.

:
否定的な方法でしか仕事の出来ない映画監督もいますからね、それに苦しみと言う社会通念を信じている俳優たちもいて、思いのままにされてしまうんです。デビューする時はそれも欠かせないことかも知れません、俳優と言う仕事には理想主義的なロマンチックな要素がありますから。そのロマンティズムは苦しみでもあるわけです。でも試練とめまいの経験が過ぎてしまえば、そこからある種脱却もします。

私はその脱却を辛くてシニカルな気持ちではなく、優しく柔らかいものにしたかったんです。その効果は役を演じる上でも感動的なものです。でもこの”めまい感”の向こう側には何か孤独で痛みを伴うものがあると思うのですが、満たされるような素晴らしい感じもあって、それはこれなしでは自分が望んでいるものを正確に表現できないような何かなのです。それが生みの苦しみであって、どのアーティストにも言えることだと思いますけど。

STUDIO

:
レティシア・マッソン監督の最初の三本の映画では、サンドリーヌ・キベルランが演じたヒロインは、孤独で途方に暮れ、男に傷つき失望していましたが、それでもなお、大恋愛を信じていました…

I.A.

:
レティシアは、"La repentie"はラブストーリーではなくて、愛の始まるを描く映画だって言っていました。この映画のヒロイン、つまりそれは私なんですが、アナーキーで現代的な不安に苛まされています。ありふれたヒロインなのです。自分を見失って、完全に喪失感に頼ってしまっているので、彼女には節度がなかったし、卑屈なところもないんです。

彼女の周りの人は全員、彼女は愛されない人だと言って、彼女はそれを信じてしまうの。彼女自身自分を愛することが出来ないのよ。生き残るために、愛されるためになら彼女は何でもする覚悟なの。映画の中で、トランジスター・ラジオを耳にして歩くシーンがたくさんあって、ラブ・ソングが次々と聞えるの。映画『隣の女』を思い出したわ。(フランソワ・トリュフォーにとって、シャンソンはとても大切なものだったの)ファニー・アルダンが演じた人物のセリフに、「シャンソンしか聞かないの、本当の事を言っているから、馬鹿な歌ほど真実味があるのよ…

でも馬鹿ってことはないわ」って言うのがあってね。「だってトリュフォーは明確に言っているから、”あなたがいないから私の人生は滅茶苦茶”とか”あなたの影の影にならせて”とかどちらも素晴らしいフレーズでしょ。」

STUDIO

:
"La repentie"でレティシア・マッソンは聞いているシャンソンに合わせてあなたを踊らせています。踊りのシーンにはどんな風に取り組まれたのですか?

I.A.
:
取り組んだ?仕事の話なの?でも言ったじゃない、私はこの映画で仕事なんかしていないわ!私は一番楽しかったのは毎日これは仕事なんかじゃないんだって自分に言っていたことね。(笑)全くそんな風に思わなかったわ。レティシアが何曲が選んでくれて私が考えずに体が動くものを採用しただけ。振付をするなんて、監督には問題外だったから;練習したり応用したり学習されたものにしたくなかったの…

例えば、私がジェフ・バックリーの"The Last Goodbye"に合わせて4分以上長回しの撮影で踊るシーンはエキストラもいないニースのイギリス人の散歩道で、一日の終わりに撮ったの。通行人たちが裸足で踊っているおかしな女がいるって気付くころには、撮影スタッフは消えていたから。照明もなかったのよ、この映画の大半は自然光で撮影されたの-だからカメラの存在にさえ気付かない人もいたもの。楽しくて、開放感があったわ。

レティシアとの撮影は、彼女は素晴らしいから、素晴らしいコンディションで撮影できるの。この映画での踊りは、言語なのよ、私が演じた人物が少女時代から使っている古い言語なの。この映画では、私には姉がいるのね、マリア・シュナイダーが演じているんだけど、彼女もまた踊るの。他の人が言葉を使う代わりに、この二人は踊る女たちなのよ。

STUDIO

:
レティシア・マッソンに初めて会った時、一番印象的だったのは何ですか?
I.A.
:
彼女の優しさ。それに私のそれとは競争する必要のない女性らしさね。彼女は自分でそれに気付いていないから、それで私と競争になることもないの。レティシアは素晴らしく魅力的な女性よ。とても幸せだったわ!お互いにインスピレーションを感じあえたし、サンドリーヌ・キベルランともきっとそうだったでしょうけど。サンドリーヌの両性具有的なところや飾り気のない神秘性とか特別な透明感や微妙な特異性を捕らえていると思うの。

STUDIO

:
たしかにレティシア・マッソンの映画では、他では見られない、あるいはそれまで見たことがないサンドリーヌ・キベルランの面が見られると思います。それはこの映画のあなたにも言えることでしょうか?

I.A.
:
どうかしらね…

STUDIO

:
この映画で、あなたは刑務所から出所します。比喩的に言うと、ある意味であなたは…
I.A.
:
…私自身の刑務所から抜け出した?たぶんね…映画の中では出所するところが物語りの始まりである訳だから。再出発ね。これは女性誕生の物語なの。「昔の」フィルム・ノワールのヒロインたちがそうだったように目的地を決めるの、一番列車のキップを買って、彼女がするのはそれだけ。そこからは、人生が決めていく、運命ね…フィルム・ノワールのように特に始まりは、どの人物もそれぞれ(私が演じた役も、彼女の人生で大切だった男たちも)自分を求めていて、自分自身を探しているのね。

で、私の役は全てを失った後で、再生するのよ。それから『トリコロール/赤の愛』のように、皆自分と戦って、迷わされたものと誕生が感じられるものと戦う:それが愛なのね。最後は『トリコロール/白の愛』のように、全て再構築されるの、まだ愛の段階まで行ってなくて、それを生み出そうとする段階。だから終わりは始まりでもあるの。

STUDIO
:
それでも今のあなたを見ると新しい出発だと思いたくなるのです、これほど活動的なのは本当に久しぶりですよね。"La repentie"が公開される前に、もう新しい映画(ブノワ・ジャコー監督の『アドルフ』)の撮影をしているのですから…
I.A.
:
そうね…どうしよう…(笑)

STUDIO

:
それに他にも多くの企画がありますよね。ジャン−ポール・ラプノー監督の次回作に舞台ではパトリス・シェローの演出で『フェードル』を演じると聞いています…
I.A.

:
今では、私にとって、働くことは呼吸することね。仕事をしていないと息が詰まるって意味ではないけれど。今では息をするように仕事をしているのだと思うわ。これほど楽だって感じたことがないのよ。まるで撮影することが習性になったような感じ。

仕事を再開してから、人は自分から働きかけようとするのと同じ位、如何に物に捕らわれているのか分かったの。私は益々主観的に仕事をしていると思うの、流されるように仕事をしているわ。息切れすることもなく、休息することもなく、続けて映画出演出来ると感じているの。今これまでなかったようなエネルギーがあるのね。

STUDIO

:
この変化はどう訪れたのですか?昨年の夏にあなたが受けたインタヴューでは、ご自身の分析を話題にされていました。仕事に関して、その分析は決定的なものだったのでしょうか?
I.A.

:
そうね。以前の私には映画出演に関するあらゆる質問は複雑なものでした。自己分析を始めた時、自分の願望がどこにあるのか、もう分からなかったんです。この仕事があまりに高くつくのであれば、続けていく力もないし、続けて行きたいとも思わなかったのです。こんな気持ちを変えなくてはいけないと思いました。

ある瞬間、何かが再び動き出すには、全てを失うリスクを負う必要があるからです。またそのリスクを負うのは、恋愛のようなものですから…優先したのは、自分の見方とまだ信じていたものでした。自分の要求に落とし前をつけたかったのです。

STUDIO

:
その質問はいつ頃されたのですか?
I.A.

:
ガブリエル-ケインが生まれた後だから、5年前です。ここ数年は私は自分の生活を最優先させていました。そう、私の生活…(目を上に向けて)映画に出なかったのは私の選択でした、でもその選択も心の平安をもたらしてはくれませんでした。

妊娠、出産をたった一人で経験して、自分が自分ではなくなってしまったんです。辛い事があると、肉体的にも精神的にも変わってしまうのよ…「こんな自分はイヤ、こんな生活もイヤ、こんな生き方もイヤ、私はこの仕事の何が好きなの?私はまだ女優の仕事を続けたいの?」って思っていました。

その答えはノーかも知れないと覚悟して、この途方もない質問を自分にぶつけてみました。苦しみの事実に直面して、若い仏陀のように勇気をふりしぼりました。数年間は自分で考え抜いて、驚きました…


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